『夜はやさし』 (F.スコット・フィッツジェラルド)

角川文庫版『夜はやさし』(谷口睦男訳)を少しづつ読んでいた。
やっと読み終ったが、淡白な結末。特に後半は走り過ぎていて、全体のバランスが悪いことは否めない。
あらためて、「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」(村上春樹著)を取り出し、その中の「『夜はやさし』の二つのヴァージョン」を読み返す。

『夜はやさし』はもちろんはじめからそのような効果を計算して書かれた小説ではない。しかしその「意余った」部分、冗長とも言える部分、舌足らずな部分、バランスの悪い部分にわれわれは(あるいは僕は)時代を超越したリアリティーを感じてしまうのである。そういった意味ではフィッツジェラルドの目指した「信仰告白」(コンフェッション・オフ・フェイス)は成功したと言っていいのではないかと僕は考えている。

いま一度、献辞をひもとく。

ジェラルドとセアラにささぐ
祝意をこめて

『優雅な生活が最高の復讐である』(カルヴィン・トムキンズ著)で描かれているジェラルド&セーラ・マーフィ夫妻が『夜はやさし』のディック&ニコル・ダイヴァー夫妻の実在のモデルであり、もちろん、スコット&ゼルダ・フィッツジェラルド夫妻自体もディック&ニコルのモデルの一部となっている。

村上春樹が書いた通り、『夜はやさし』に「時代を超越したリアリティー」があるとすれば、(フィッツジェラルド自身は無意識的だったかもしれないが、)二組の夫婦を融合して題材にしたことで「その時代ならではのリアリティー」を抽出することに成功したからに他ならない。

時には饒舌な第三者として、時にはイメージの輻輳を意図した細かいエピソードの積み重ねを当事者感覚で描いている文体は、たしかに振幅の大きなブレを感じさせる。
時代の隔たりを意識することは少ないが、あまりに隠喩的な心理描写にはついていけなくなる瞬間もある。

「小説としての完成度とは何か?」を逆説的に考えさせる作品であることは間違いない。

そして、今度こそオリジナル版の翻訳に目を通したい、という思いが募って来る。

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『夜はやさし』 (F.スコット・フィッツジェラルド)

図書館で、『夜はやさし』の新訳(2008年5月発行、森慎一郎訳)を発見。
巻末には、村上春樹の「器量のある小説」と題した解説も掲載されている。

『グレート・ギャツビー』が読者をすっぽりと手中に収めてしまう作品であるのに対して、『夜はやさし』は読者に「余地」を大きく委ねた小説である、ということもできるだろう。

…『夜はやさし』はそれとは逆だ。いくつかの時代を超え、曲折や浮沈を経て、黙殺や誤解をくぐり抜けて、ようやくその真価が一般に認められることになる。このような小説をみつけることはとてもむずかしい。だからこそこの小説は大事な意味を持っているのだと思う。僕が「この作品には器量がある」というのはそういう意味だ。器量というのは、あるいは歳月の経過を通して、結果的にしか浮かび上がってこないものなのかもしれない。

訳者によるあとがきでは、二つ存在するバージョンについても言及されている。(今回の新訳は、オリジナル版を選んでいる。これまでの日本語訳は、改訂版に基づくものだった。)

…改訂版『夜はやさし』はいわば未完の作品である。一方、オリジナル版は、とにもかくにもいったんは完成品として世に出たものだ。原書のテクストで現在手に入るものの大半がオリジナル版に戻っているのも、この点の考慮が働いた結果のように思える。

自宅に戻って本棚から20年前の「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」(村上春樹著)を取り出し、その中の「『夜はやさし』の二つのヴァージョン」を読む。

…彼の誠実さのおかげで、我々は今日二種類の『夜はやさし』を目にすることができる。ひとつはオリジナル版の三部わけの『夜はやさし』であり、もうひとつは1951年に発表された改訂版による五部わけの『夜はやさし』である。
…この1951年の改訂版は彼の残した簡単な指示に従って文芸批評家マルカム・カウリーが編纂しなおしたものである。
…もっともカウリー自身はこの改訂にあたてはおおいに悩んだようで、ペンギン・モダン・クラシックスに寄せた序文の中でこのように述べている―
「作者にとっての決定版が即ち読者にとっての最良の版であるのか、という疑問は残った。おそらく私がその最初の形を愛していたせいだろうが、(彼の指示に従って編纂しなおす)決心をするにはすいぶん時間がかかってしまった」

同じく本棚から角川文庫版『夜はやさし』(谷口睦男訳)を取り出し、解説を拾い読みする。

…とにかく作者生前の意図に従って再構成された修正版が、「決定版」と銘打たれてスクリブナー出版社から出版され、イギリスでも同じく「決定版」としてグレイ・ウォールズ・プレス社から出ており、今後長くこの小説の定本として流布すると思われるので、この翻訳はそれに拠ることにした。
(昭和35年、1960年)

しかし、現在のスクリブナー・ライブラリー・ペーパーバックは、オリジナル版になっているそうだ。

翻訳の旬も時代の流れと共にあり風化していくものだが、つまり、50年程の歳月を経たことで『夜はやさし』の定本は修正版からオリジナル版に戻ってきたということのようだ。

1966年

フランスの人間科学の最高の収穫の年のひとつであった。

フーコー 『言葉と物』
ラカン 『エクリ』
レヴィ=ストロース 『神話論理 II 蜜から灰へ』
バルト 『批評と真実』(1966) 『モードの体系』(1967)
etc.

彼らの最も重要な著作の幾つかを発表した年である。

メディアとは

それゆえ、作家と公衆とのあいだの区別は、基本的な差異ではなくなりつつある。その区別は機能的なもの、ケース・バイ・ケースで反転しうるものとなっていて、読み手はいつでも書き手に転ずることができる。

<「複製技術の時代における芸術作品」「ボードレール」(岩波文庫―ベンヤミンの仕事) P.92 >

複製とは

すなわち、現代の大衆は、事物を自分に「近づける」ことをきわめて情熱的な関心事としているとともに、あらゆる事象の複製を手中にすることをつうじて、事象の一回性を克服しようとする傾向をもっている。
<「複製技術の時代における芸術作品」「ボードレール」(岩波文庫―ベンヤミンの仕事) P.69 >

微力の力 おバカな21世紀、精神のサバイバル(橘川 幸夫/村松 恒平)

P.65
広辞苑を見ればこの世は言葉でぎっしりいっぱいのように見えるけれども、微視的に見ればスカスカな構造なんだ。

P.103
金融資本に立ち向かうには、まったく違う発想でいかないとダメだろう。不必要なものを高コストで生産するという芸術は、金融資本と戦えるか(笑)。

P.119
情報化社会というのは、なんでも情報が入る社会ではなくて、何もしなくても自然と個人の内部に情報が入ってきてしまう社会だ。

P.130
僕は、メディアというのは、広義での社会教育だと思っている。教育といっても、上から経典を押しつける教育ではなくて、コミュニケーションの場としての教育だと思っている。

P.136
ネットというのは、独り言なんだよ。実はコミュニケーションの場ではない。メールだって、機能的には留守番電話なんだから。それはそれで便利なんだけど、それだけでいいはずがないんだ。SNSの日記にしても、携帯サイトの小説コーナーにしても、独り言ではなくて、第三者が干渉できたり、添削できたりするような、関係性システムが登場しないとダメだと思ってる。

P.172
意志は本来、なんのために生まれてきたか、ということと結びついている。感情は意志がよく実現しているかどうかのセンサーだ。思考は意志を実現するためのプロセスを管理している。そう考えると非常に優先順位がはっきりする。

P.179
「個人というのは他人の無限の可能性の一つであり、他人というのは自分の無限の可能性の一つである」

P.192
「愚か者は経験から学び、賢きものは歴史から学ぶ」

P.194
よく「言葉では表現できない」ということを簡単に言う人がいるでしょう。でも、僕はそういうことは言葉をギリギリまで使い倒してから言え、と言いたい。僕はクルマで言ったらF1みたいに矛盾した要求がせめぎあって車体が絞り上げられ、タイヤが発熱して煙を上げるくらいまで、言葉の機能を使い倒したい。