『夜はやさし』 (F.スコット・フィッツジェラルド)

角川文庫版『夜はやさし』(谷口睦男訳)を少しづつ読んでいた。
やっと読み終ったが、淡白な結末。特に後半は走り過ぎていて、全体のバランスが悪いことは否めない。
あらためて、「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」(村上春樹著)を取り出し、その中の「『夜はやさし』の二つのヴァージョン」を読み返す。

『夜はやさし』はもちろんはじめからそのような効果を計算して書かれた小説ではない。しかしその「意余った」部分、冗長とも言える部分、舌足らずな部分、バランスの悪い部分にわれわれは(あるいは僕は)時代を超越したリアリティーを感じてしまうのである。そういった意味ではフィッツジェラルドの目指した「信仰告白」(コンフェッション・オフ・フェイス)は成功したと言っていいのではないかと僕は考えている。

いま一度、献辞をひもとく。

ジェラルドとセアラにささぐ
祝意をこめて

『優雅な生活が最高の復讐である』(カルヴィン・トムキンズ著)で描かれているジェラルド&セーラ・マーフィ夫妻が『夜はやさし』のディック&ニコル・ダイヴァー夫妻の実在のモデルであり、もちろん、スコット&ゼルダ・フィッツジェラルド夫妻自体もディック&ニコルのモデルの一部となっている。

村上春樹が書いた通り、『夜はやさし』に「時代を超越したリアリティー」があるとすれば、(フィッツジェラルド自身は無意識的だったかもしれないが、)二組の夫婦を融合して題材にしたことで「その時代ならではのリアリティー」を抽出することに成功したからに他ならない。

時には饒舌な第三者として、時にはイメージの輻輳を意図した細かいエピソードの積み重ねを当事者感覚で描いている文体は、たしかに振幅の大きなブレを感じさせる。
時代の隔たりを意識することは少ないが、あまりに隠喩的な心理描写にはついていけなくなる瞬間もある。

「小説としての完成度とは何か?」を逆説的に考えさせる作品であることは間違いない。

そして、今度こそオリジナル版の翻訳に目を通したい、という思いが募って来る。

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