内的経験 ジョルジュ・バタイユ(続き)

生は死のなかに没し去り、もろもろの大河は海のなかに、
既知は未知のなかに没し去る。
認識とは、未知への近接だ。
非・意味はありうべきすべての意味の到達点である。
<p.233>

だがプルーストは、勝利感抜きではそもそも書く理由が欠落してしまったであろう・・・・・・プルーストが「見出された時」のなかで長々と語っているのは、無意識的記憶の、印象群の、無限の反響のごときものとみなされた「書く」という行為であった・・・・・・
<p.331>

私はことさら敵意あることを言いたいわけではない。
そうではなくて、ただ、ランボーの言葉のない異議提起からは、何も、あるいはほとんど何も残らなかったと言いたいだけだ。
<p.338>

どこの誰もヘーゲル以上に、人間たち相互の分離ということに重要性を与えた者はいない。
この宿命的な裂け目に対して、哲学的思弁の領域で場を与えてやった-完全な場を与えてやった-のはヘーゲルただひとりだった。
<p.342>

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