内的経験 ジョルジュ・バタイユ

「私のすべての勤勉への熱意と、すべての無頓着さ、自己統御と、生来の傾向、すべての勇気とすべての身震い、私の太陽と、真っ黒な空からほとばしる私の電光、私の魂と精神のすべて、私の『自我』の重苦しい花崗岩、すべてこれらのものは絶えず次のように繰り返す権利がある、『この私などはどうでもいいのだ・・・』と」(ニーチェ 1880-1881年の断章)<p.61>

人間の目的地にまで行くためには、ある点で、運命を甘受するのではなくて、運命を力ずくで作り上げる必要がある。その反対が詩的無頓着であり、受動的姿勢であり、男性的な、果断な反応に対する嫌悪であり、つまり、文学という失墜(うるわしきペシミズム)である。おのれのなかに無疵の決断力を再発見するために、到達しえた可能事に背を向けねばならなかったランボーの、あの堕地獄を見よ。極点に到達するためには、その条件として、ポエジーに対する憎悪ではなく、詩の女っぽさに対する憎悪が要る。(決断力の欠如。詩人は女だ。作り話が、言葉が、詩人を強姦する。)<p.102>

プルタルコス『英雄伝』に引用されたカエサルの言葉。「ローマで次席となるよりはむしろここで第一人者になりたい」と言ったという。<p.110>

知られるかぎりのランボーの最後の詩作品は、極点ではない。たとえランボーが極点に到達したとしても、その極点の交流には、おのが絶望という手段を介さなければ到達しはしなかった。彼は可能な交流を抹殺してしまい、もはや詩作品を書かなかった。<p.124>

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