徒然なるままに/【健康と建築】

ハルコ殿、

今日はインスパイアされるものがいくつかありました。
project GB / MANIFESTO
「司馬遼太郎は、生涯自分の作品を20才の自分に向かって書き続けたそうだ。」

二人の男性と二人の女性。
彼らは年齢も住んでいる場所も異なる。
実際に会ったことは数度しかないが、お互いにメールやチャットを通じて連絡をとっている。

・・・プルーストって読んだことありますか?
もちろん、ボクも読んだことがありません。(笑)
日本のプルースト研究の第一人者が書いた新書を読み始めたところです。
お手軽な「失われた時を求めて」入門篇。

<『失われた時を求めて』は、あらかじめ未完に終わるべく運命づけられた小説だった。こうしてプルーストの一生は、この「唯一の書物」を目指しながら、業半ばにして中断されたのである。>

<・・・それを合図に語り手が自分の生涯を書く決心を固め、こうして『失われた時を求めて』は終わることになるのだが・・・>
→終わりが始まりの徴、というのは、なんだか『ドグラ・マグラ』みたいですね?

二人の男性と二人の女性は、ボクの分身です。

【健康と建築】

「健康とは、生きがいを実現するための手段であり、目的ではない。」

彼が東京へ来たのは、もう50年近くぶりだという。1950年代前半のことだ。
当時の記憶は定かではない。しかし、彼の話の端々から窺い知るに、上野公園から神田の古書街まで歩き回っていたことは事実のようで、当時はその間に目立った建物らしいものも、まばらだったという。

札幌の広告会社でデザインのアルバイトを3ヶ月程したことがある彼は、純粋な芸術(ファイナート?)よりも産業デザインに関心があったようで、とはいえ北
海道の田舎の貧乏な若者にとっては、東京の私立の芸術大学に進学する術もなく、イチかバチかで、東京芸大の建築学科を受験することにしたようだ。

ボクが建築を志したのは、大学に入ってからだった。そんな彼の影響は皆無だったと思いたい。建築を志したからといって、真面目に勉強したわけではない。文
系・理系という区別が嫌で、とはいえ就職を考えて工学系の学科に入ったが、工学の中で最も文系的要素の強い建築工学を次第に意識するようになった。

芸大のキャンパスは、休日ということもあって、学生達もまばらだった。
正門の前で記念に写真をとって、奥の建築学科の棟に向かう。

「絵が好きだったの?」とボクは尋ねた。
「ああ、だから造形部に入ったのさ」と彼は言う。

地域の小学校と中学校の教師は、懇親も兼ねてそれぞれ専門を活かした研究会に属していた。造形部には、中学の美術の先生と、美術を専攻した(または関心のある)小学校の先生が集まっていたという。

正門前の建物はきらびやかな新築だったが、建築学科の棟は古びた昔ながらの建物だった。そこら中にポスターやチラシがはりめぐらされている。
ボクは彼と少し距離をおいて、一人で入り口に入っていった。階段の脇にトイレがあったので、そこで用をたす。床も壁もタイルが敷き詰められており、安っぽい便器が並ぶ。

どう考えても、部外者が立ち入るような所ではない。階段の向こう側には、研究室が並んでいたが、そっちに入っていくのはやめて外へ出る。

彼は、外から建物を眺めていた。50年近く前に来たときに受験した建物がこれだったかどうか、記憶の片隅を探っているようだった。

そのとき、学生が二人、中に入ろうとして彼の脇を通り過ぎた。

「もしもし、ちょっと聞きたいんですが・・・?」彼が学生の一人に話しかける。
「この建物はいつ頃できたんですかね?」
学生は、怪訝そうな表情で、それでも丁寧に答える。
「さあ、このキャンパスの中でもかなり古い建物ですけど、いつ頃のものかは・・・。」
「ああ、そうですか。いや、昔、ワタシも受験したことがありましてね。当時の建物なのかどうか、よく覚えていないもので確かめたかったんですけどね。どうも、どうも。」
彼は、軽く会釈して、学生たちが建物の中に入るのを見送る。

11月も半ばになると、さすがに寒さが身にしみる。

「ねえ、そろそろ行かない?」とボクは彼に言う。
「ああ。」
「・・・で、どんな試験だったの?」
「学科と実技があったんだけどね。一日目の学科は悪くない出来だったと思う。二日目は実技で、西洋美術館の前に集まって、担当の教授が『好きな場所でパースを描いてください。時間は2時間です』って言うんだよなあ。参ったよ。」懐かしそうに笑う彼。
「で?」
「全然、歯が立たなくてな。まあ、そういう訓練をしてなかったからなあ。一応、パースは描けるんだけど、今思えば、どこに陣取るかで、もう点数の半分は決まっちゃうんだろうなあ・・・ははは。」

・・・ボクが絵画に目覚めたのは、高校に入ってからだった。だからといって、美術部に入ろうとは全然思ってもみなかった。文章を書くのは好きだったので、漠然とジャーナリストを志向して新聞局に入った。

彼は小学校の教師を約40年間勤めた。少なくとも22歳で大卒、60歳定年の通常ではありえない話だが、彼は教員免許をとる前に、自分の母校である田舎の
小学校で教職に就いた。19歳の時だ。高校を卒業し、札幌で半年くらい仕事をして田舎に戻ってきた頃のことで、当時、教職は「デモシカ先生」と言われてい
た時代だ。「先生にデモなろう。先生にシカなれない。」という意味だという。当時はまだ教員免許がなくても臨時教師になれたのだそうだ。

2年弱、そこで働き、やはり大学進学を諦めきれず、芸大を受験するために上京し、見事に不合格。きれいさっぱり大学のことは諦めて、再び田舎の小学校の教師にもどる。
彼が、教員養成所に通って正式に教員免許を取得するのは、それから5年後のことだった。

彼・・・ボクの父は、教頭にも校長にもならずに、平(ヒラ)の小学校教員を40年以上やっていた昭和ヒトケタである。

from 次郎

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