シーシュポスの神話/気狂いピエロ

手元に、カミュの「シーシュポスの神話」が二冊ある。
どちらも新潮文庫で、奥付をみると「昭和五十七年七月三十日」の二十二刷と、
「平成十二年七月二十日」の五十五刷だ。
古いほうは、カバーもなく、表紙の裏にメモ書きもあって、ボロボロに擦り切れている。
ページも日焼けして黄ばんでおり、酸化した紙の古臭い匂いがする。約二十年前の本だ。
もう一冊は、最近本屋で見つけて買った。古いほうを捨てるために、だ。
同じ本を二冊買うことは、ほとんどない。文庫の気軽さもあるが、この本には思い入れがあるため、古本を処分しても代わりを手元に残しておきたかった。

珍しくページの中に書き込みが数箇所ある。鉛筆で線を引いてある。
また、そうした書き込みのあるところがわかりやすいように、ページの角も折り曲げてある。
「二十二刷」を捨てる前に、まずボクは「五十五刷」にも、同じ箇所に線を引き、同じページを折り曲げた。
一番書き込みの多い箇所は、「不条理な創造」の中の「哲学と小説」という章だ。

おそらく元々が難解であろうカミュの文体を、さらにその文体を再現しようとした訳者の努力もあって、なかなか読みこなしにくいセンテンスが並ぶ。

いつも拾い読みできるように、カバーをはずし、わざとボロボロになっても構わないような扱いをしてポケットに入れながら、まだ土地勘のない東京の街を徘徊したことがある。
東京の彼女にふられて、入るはずの金も入らず、身も心も痩せ細った夜。もう、15年も前のことだ。
手持ちわずかの小銭を数えながら、吉野家に入り、行く宛もない時間をつぶすためにパラパラとページをめくる。

「創造するとは二度生きることだ」
「説明はむなしい、しかし感覚はのこる」
「芸術作品は精神の病に、ただのひとつも出口を提供しない」

空腹を満たすことも、精神の均衡を保つこともできなかったが、こうしたテキストを斜め読みしながら、苦い恋の終わりを噛み締めていたように思う。

ゴダールの「気狂いピエロ」を10数年ぶりにビデオで観る。
あんなに破天荒な断片に思えていた、ひとつひとつのフッタージュがとても精緻で美しいものに観えた。
ゴダールにとっては、当たり前なんだろうが、娯楽作品を作っていたんだ、と納得する。
劇中、彼の敬愛するサミュエル・フラー監督に「映画とは・・・」と語らせている、パーティのシーンが印象的だ。

アンナ・カリーナに翻弄されるジャン=ポール・ベルモンドは痛々しくもあり、それにもましてアンナ・カリーナの小悪魔的な魅力には、ゴダール自身が一番虜になっていたのだろう。

映画のエピローグである
「見つけた!永遠を!」「それは海!」「そして太陽!」
・・・これは、カミュの本(異邦人?)からの一節だった。

(2003)

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